みなさま 田中かつゑです。投薬中のニャンコがいます。もう2週間程錠剤を毎朝2粒飲ませています。(この子は食が細いので、ご飯に混ぜてお薬を摂取する方法が使えません)嫌なのでしょうね、ここ数日は朝、私の顔を見るとこそっと隠れます。嫌われてしまった…しくしくしく。
先日、ある陶芸作家の方とよもやま話をしている時、生い立ちの話になりました。彼が主となっている窯は代々続いた立派な家系なので、そのお話にはかなり驚きました。今日はそのお話ともに、「個」について考えてみたいと思います。
簡単に彼が辿った道をご紹介すると、先祖代々守られてきた作風、手法をそのまま受け継ぐことに抵抗を持ち、自分なりの道を切り開きながら、窯ではなく自分の芸術を昇華させた、というもの。一見、すごいなあと思うけれど、その大変さは想像がつきませんね。これから解説します。但し彼から得た情報が足りず私の予測も混じっておりますが、ご容赦ください。
- 彼は地元の高校を卒業後、海外留学を経験します(彼自身の思いからです)
- 文化が異なる異国で孤独と戦いながら、彼は自分が本当にやりたい事を自問自答し続け見つけます
- 帰国後は陶芸学校に入学し直し、修行をリセットしながら自分の作風を作り始めます
- 窯の後ろ盾、財政基盤等全てを捨て、文字通り一から自分の作品だけを武器に行商を開始します
- それを続けること30年余。やっと自分の銘を書ける自信がついたと彼は言います
- 今の彼の目標はコロナで延期となっている北欧での個展を再開することだそうです
背負うものが大きいと、その重圧に押し潰れそうになります。かといって捨てることも簡単にはできないでしょう。ましてや彼ひとりではなく「窯」を支える大勢の人、取引先、お客様との関係などとても簡単には捨てられないはずです。でも彼は、それらを真正面から受け止め、おそらく一つ一つ丁寧に解決しながらも、自分自身は新しい芸術家として、新たな極致を開いたのです。(念のため。彼はしっかりと歴代の窯を守っています。それもすごい所です。)まさしく、自分自身(個)を表現しつつ自分の道を創り上げたと言える方だと思います。尊敬します。(しかも穏やかな口調で、お天気の話でもするように苦労話をなさるんですよ…)自分を見つめ、やりたい事を見つけ、実現に向かって一歩一歩踏みしめながら進んでいく。芸術家である彼が個を表現するやり方なのでしょう。
偶々彼は自分の作品という手段で自分自身を表しましたが、そのような術を持たない私のような者はどうでしょう。どんな場面で自分が表現できているのだろうか。すごく考えましたが、おそらく私は人や動物、つまり対象物といる時が個としての自分を見せられる場面ではないかと最近思うようになりました。このように書くと自意識過剰なようですが。
想像するに、今現在急に独り暮らしになったとしたら(ニャンコもいない状態)、おそらく私は何の張り合いも持てず、早々に老けてしまいそうな気がします。誰かのために何かをすることが自分自身の存在を認識でき、同時に喜びも感じるのだと今は自覚しています。
仕事もそうでした。1人黙々とこなす職人芸のような領域よりも、誰かを巻き込み大きな渦を描き成果を挙げる領域の方が得意でしたし、初めてお仕事をさせていただく方とも目線を合わせ、共通のゴールに向かっていくことが出来ました。多分私と関わって頂いた方々が、私にとっての鏡になっていたのだろうと想像します。そのため、対象の方がいらっしゃらないと、自分自身を見つけられなくなってしまうのでしょう。
これが私の個と仮定すると、閉じ籠ってはダメですね。少々腰が重くとも自分以外の様々な方とかかわりを持ち、その方が喜ぶ顔を想像しながら何かに勤しんでいきたいと思います。