役員メッセージ その他

かつ便りNo.122 ~自分で時間を使いたい~

 

 みなさま 田中かつゑです。ご飯の前にだけ、じゃれ合う2匹がいます。まるで痴話げんかのように攻撃側がゆるーい猫パンチをしたり、軽く耳を噛んだり。で、防御側といえばやられっぱなしで何も抵抗しません。その戦い(?)も「ご飯よ」の声が掛かると、即終了、解散。毎日の事なのですが、まあ飽きもせず。楽しいですか?

 家の中に猫が10匹。これは私の家事労働時間を劇的に増やしてくれます。特に抜け毛が多くなる春秋はブラッシングも追い付かず、掃除機と粘着クリーナーがフル稼働です。家事はやり出すときりがなく、掃除・洗濯・アイロンがけ・食事の支度等々で一日が暮れることもしばしば。こうして疲れてくると気分転換と称して、軽い読み物や癒される記事を求めスマホに手が伸びます。そうです。心がSNSに逃げ始めるのです。どなたかの可愛い子猫の画像にほっこりとし、面白い記事に笑い、気がつくと、ああっ、小一時間も経っている!時間が勿体ないなぁと思うのですが、習慣化してしまったのでしょうか。一回のアクセス時間はたかが知れていますがチリも積もれば何とやら。改めてスマホとにらめっこをしている時間を別の何かに活用したいなと思うようになりました。AIが勝手に、私が興味を持つであろうと判断してリコメンドしてくる記事や写真・動画に浸っていると、考え方や価値観がどんどん偏っていくことが予想され一種の恐怖を覚えたからです。(例えば、私が利用しているSNSにはやたらと猫の情報が載っています。また、必要があって「造花」に関して調べたりすると、次の機会からは造花の情報がこれでもか!と襲ってきます…。)

 若い頃は本を読むのが好きでした。ノウハウ本、ビジネス関係書ではなく、いわゆる文豪と称される方々、世界文学全集に掲載されている文学の抄訳などの文庫版を鞄に忍ばせておりました。活字を追いながら、登場人物の声や顔を想像したり、光景を頭に描いたり、何気ない一文に心を奪われあれこれ思いを馳せたり。美しい表現に触れることは自分自身の頭と心の栄養になるんだなと強く思ったものでした。特に米国の南北戦争の時代に女性が逞しく生き抜く物語や、日本の幕末を舞台に主義思想が異なる派閥同士の葛藤を描いた歴史ものなどに、ついつい感情移入してしまったものです。(幕末編については聖地巡礼みたいな旅をしたことも懐かしい思い出です。)

 ところが家庭を持ち子供たちの世話に追われ、分刻みの生活を余儀なくされるようになって、私の余暇はなくなりました。同時に本を読むという楽しみも、棚の上に置き去りにされたままになりました。私が最後に読んだ本を閉じてから、もう30年以上が経過しています。文字通り、仕事・家事・育児に埋め尽くされ一部の隙もない時間がぶっ飛んで行きました。それはそれで充実した時間だったのですが。

 今、子供たちも独立し、仕事もペースを落としたことで私だけの時間が戻ってきました(ニャンコ10匹はいますが)。高い高い棚の上で埃をかぶっていた「読書」の楽しみをもう一度味わう時が訪れたようです。けれど若い頃とは違い、老眼・集中力の欠如というハンデを負う身としては寸暇を惜しんで読書に勤しむことは苦行に近い行為となり長続きはしないでしょう。これからは過去の自分の感性を懐かしむと同時にこれからの文学に対する受け止め方を模索する時間でもあるかと思っています。手始めに振り返るのは大好きな詩人のデビュー作。宇宙を思い、自分を振り返る。思わずくしゃみでも出てくるのでしょうか。