みなさま 田中かつゑです。我が家のニャンコたちは、みんな年寄りの枠に入っている影響もあって、気温や湿度の急激な変化に弱くなりました。人間と同じなのでしょうか、胃腸に来たり、食欲が衰えたり、元気がないように見えるんですね。なのに、何故、抱っこをせがむ時だけは、嬉々として爪を立てる?
「ファスト映画」という言葉を耳にしました。Wikipediaで調べると、「映画の映像を無断で使用し、字幕やナレーションをつけて10分程度にまとめ、結末までのストーリーを明かす違法な動画である」と書かれています。違法なのは著作権を考えば当然と思いますが、そもそもあらすじだけ掻い摘んで知ることの意味は何だろう…?と素朴な疑問が湧いてしまいました。
もしかして、映画、動画に限らず、本などの印刷物を見たり読んだりする目的が「概略を把握する事」になっている?情報過多の世界に生きている方々は何かに追い立てられるように知識や情報を取り込まなくては落ち着かないのでしょうか。そのような方は、詩の一行に、言葉の一言に感動したり、同感したり、考え込んだり、とご自分の心を深く洞察する時間は勿体ないと思うのでしょうか。なんだか悲しい気持ちになってきました。
私が40代の頃、何度も読み返し、自分の立場と比べながら、悩んだり、力づけられたりした本があります。それらは、ケン・ブランチャードさんとシェルダン・ボウルズさんの共著である一分間シリーズ。その中で特筆は「一分間モチベーション」という本です。彼らが描いた一分間シリーズは機知に富み、物語としてストーリー展開されています。そのため、あらすじだけを追ってしまうと、彼ら著者が読み手に伝えたいメッセージが伝わらないという側面を持っています。もしも、あらすじだけを誰かがまとめたとしたら、とてもつまらない本に感じるでしょう。これは私の勝手な推測なのですが、彼らがどんな題材に関しても、普通のノウハウ本の様な形式を取らず、「物語」という手段を採択したのは、きっとこうではないかと思うのです。「読み手に、様々な登場人物の立場・気持ちに感情移入してもらい、複数の角度で物事を咀嚼しながら『自分』という主人公の視点を高め・視野を広げ、最終的には俯瞰的に物事を捉えて欲しいから」。考えすぎでしょうか。
少なくとも、私自身はこの本のあらすじそのものよりも、種々の場面において、主人公が取った行動の狙い・意図や導き出される結果を、自分自身の悩みと照らし合わせて考え込んだり、そんなに上手く行かないよ…と愚痴をこぼしてみたり、そうかそんな考え方もあるんだなと感心したりしました。さらに、自分で出来ることややってみたい事をさがしていたと記憶しています。
映画も同様です。たとえ、予告編で何となく筋書きがわかっていたとしても、場面場面で感動したり、ハラハラドキドキを繰り返したり、感涙にむせったりと、自分の心を良い意味で波立たせてくれる素晴らしい媒体です。さらに繰り返し同じ映画を見ていると、当初は気がつかなかった監督が仕込んだギミックに気がついたり、登場人物の服装に込められたメッセージを感じたり、誰かが放ったある一言が後に凄い意味を持っていることに改めて気がついたり…と何通りも楽しめる素晴らしい娯楽だと思います。
結論を知ることを急がず、過程を楽しみ、時には立ち止まって深掘りしてみる。映画にせよ本にせよ名作と評判の高い情報は、色々な角度から楽しめ、さらに気づきを与えてくれます。そして、これらはあらすじだけにサッと触れた方には経験できないことだと思います。浅く広く、も、大量の情報を仕入れる目的の時は結構な手段とは思いますが、是非ぜひ、1つの物語、詩、言葉などに洞察を深めることも、特に若い方には経験して頂きたいと思います。その時感じた・考えた・反感を持った事柄が、10年、20年後再びその媒体に触れた時に、やはり同じように思い考えるのか、比べてみて欲しいのです。
きっと、ご自分の経験や成長と共に、昔に感じた諸々の感想が今のそれと異なることが実感できるかと思います。
ご自分の成長過程と共に、琴線に触れる情報は変わっていくと思います。けれど、その時々で感じたことは、必ずその方の肥やしとなり、成長の手助けになってくれると思っています。そのためにもその情報を深く深くわかろうと追い求めて欲しいです。